雀がいません!

私が嫁ぎ、この地に住んで50年になりました。

自然が一杯の我が家、それなのに雀の姿を見かけないのは今年が初めてです!
どこヘ行ってしまったのでしょう?
 
以前、(日本雀が少なくなっている)と聞いた事がありました!
 
確かに昨年の春は、例年より雀がいつもの3分の1ぐらいしかいなかった。
それが晩秋にかけ、ほとんど見かけなくなりました。
気にはなっていましたが、雪解けが進んで、庭木の手入れをしなければと目を向けてこの現実に気づいたのです
雀がいない!
いつもは、普通に飛び交っていた愛らしい雀が一羽もいないのです!
 
草木が芽吹き、小鳥達のさえずりがあってこその春の訪れです。
牧場経営を辞め、家や敷地の周りに植えた木々が大きくなってからヒバリのさえずりも聞こえなくなって10年はたつでしょうか?
 
この静けさは異常です。
アライグマがうろつく様になってからは、年々朽ちかけていく厩舎ですが、そこをねぐらにしてしていた猫ちゃん達もいなくなってしまいました。
 
雀の親子の飛び交う姿が見えなくなるとは思ってもいない事でしたね。
昔話の「舌切り雀」を探して山をさまよっていたお爺さんの様に私も探しに行きたい気分でした。
 
ここにいたのね!
4,5日前、近くのゴミステーションに向かう途中、チュンチュンと飛び交う雀に思わず笑みがこぼれました。
 
考えてみますと森の中には、ヒバリも雀もいませんね。
我が家の周りの木が大きくなって、住みづらくなったと言う事でしょうか。

腐らないカボチャ?

以前、無農薬栽培でリンゴ生産に成功された青森の木村秋則さんの話を聞きました。

 
私もリンゴ農家で育った経験から、それがどんなに大変な事か良く分かります。
農薬をかけずにいると、瞬く間に虫に食われ、惨憺たるものです。
 
その無謀とも思われる無農薬栽培に挑戦、家族を抱え無収入での苦悩は死に物狂いだったのは言うまでもありません。
先の見えない挑戦。
考えて!考えて!
自殺まで考え、深夜、山に登った時人間の手をかけずにリンゴが実っているのを見つけたのです。
そこでフカフカの根元の土に気づいたのです。
後に、そのリンゴの木はドングリの木だったそうです。
 
幾度か地球外生命体に遭ったとの事。
その体験では、無農薬無肥料栽培を後押しされたと話されていました。
 
何か偉大な事をなしえる時には、目に見えない力(神様)でしょうか?
そんな不思議な事が起こるものですね。
自然と調和した植物本来の生きる力を見出すまでの挑戦は、どれ程の物か。
奇跡以外の言葉はありまません。
そのリンゴは、腐らないそうです。
 
 
そんな大それた事とは違うのですが、私の昨年作ったカボチャがまだ腐らないのがあります。
2月末、お友達に我が家のカボチャを差し上げた所
「Yさんのカボチャ、どうして腐らないのですか?」
と不思議がられました。
 
私も自然栽培と言えば聞こえが良いですが、家庭菜園での事です。
日々闊歩する鹿の食害から逃れ、如何にしてカボチャを作れるか?
毎年それに挑戦している所です。
 
先ずは生ごみや雑草を放置した場所を木の枝で囲み、鹿の侵入を防ぎます。
この方法は、アフリカの何処かで動物から作物を守るための知恵です。
賢い!
 
ここに、3月末から4月始めにかけて5センチ程穴を掘り種を植えるだけです。
後は、芽が出たら間引き、目に余る雑草は刈り倒すだけ。
地面を張っているカボチャを、木に登らせたりもします。これは?ネズミ除けです。
こんな感じで、採れたらラッキー。
採れなくても仕方がない。
種は、もったいないので自家製。
農薬も肥料も無し。
こうして栽培するのは、今年で5年目になろうとしています。
 
この様にして栽培したカボチャ、毎年のように長持ちします。
今回もまだ腐らずに小さいですが5個も残っています。
 
この自然栽培は「奇跡のリンゴ」は腐らない!に通じるものがあるのでしょうか?
私にとっては、「奇跡のカボチャ!」ですね。
 
こんな事があるから人生は楽しい!
今年は、4月1日に種を植えました。

眠れない夜

私にもこんな日が来ました!

 
60歳を過ぎた頃からでしょうか。
午後からコーヒーを飲むと、夜、眠れなくなりました。
そこに気付くには、しばらく時間を要しましたね。
 
今も続けていますが、立ちっぱなしのパートの仕事。
一晩中まんじりともせずに過ごした日の仕事は、(疲れる!)
の一言につきます!
 
気付くと、コーヒーだけではありませんでした。
緑茶、チョコレート、コーラ、ガラナ
 
眠れぬ夜を経験し、これらを午後から摂取するのを止めてから随分と時間が
過ぎました。
 
晩年、祖父母をはじめ周りの大人達が話していた事を今、私も体験しています。
近頃、11歳年下の友人も同じ事を言う様になりました!
人生とは、自分自身も周りの環境も変わり続けていくものですね。
 
明日の事はわかりません。
だからこそ、今日と言う日を大切に楽しく生きて行きましょう。
楽しくない日も楽しくして!

人間の尊厳

今では、日本がアメリカの植民地であると言う事を多くの人が理解しているであろう現実。
しかし、私が子供の頃には占領されたままだ!と捉えている人はいても、一般人の植民地だと言う確固たる言動を,聞いた事はない。
 
最も田舎の我が家では、食べる事で精一杯の日々、外人さんを見かける事など皆無でした。
テレビ、新聞からの情報を得るにもそれすら我が家では遅れていた。
 
小学校の図書館で手にした本から、世界のありよう?エス様の童話から、学んだ博愛。
そこには強く心惹かれたが、キリスト教徒になろうとは思えなかった
私は、世の中の事何も知らない。
後で後悔しない様に勉強して、世の中の事を理解してから考えよう。
そう思って生きて来た。
 
洋画を見ては楽しみ、羨望だけが膨らんで行った少女時代。
貧しさゆえ自分自身は、諦めいっぱいの人生だったがそれでも夢や希望を考える事は出来た
 
家族全員でこなしていた開拓農家の過酷な生活。
完璧ではなかったとしても、食べ物は平等。
農家ゆえイモやカボチャばかりだったけれど、ひもじい思いはした事がない。
正に親の愛であろう。
 
鍋一杯のイモの皮をむきながら
「働けど働けど我が生活楽にならず、じっと手を見る」
ときおり母が口荒んでいた啄木の歌。
 
母が、他界した年齢になりました。
今気付くのは、凛として生きていた彼女の人間としての誇り。
人間の尊厳を教えてくれたのは、母でした。
 
どこで学んだか忘れてしまいましたが
「これから生きて行くには、常に時代を見る目を持たなければならない」
この教えが何時も頭の隅にある。
 
世界へ目が行く。
 
此処まで生きて、その深層がやっと理解出来た。
様々な事を勉強をする中で、噓を教えられ、操られていた現実。
 
世界は戦争ビジネスで動いている。
ここに焦点を当てなければ平和はやってこない。
 
ウクライナ戦争から何時しかイスラエルパレスチナへ。
これらの戦闘の中、生死をかけて逃げ惑う人々の中に戦争ビジネスの本質を見抜く人は幾人いるのでしょうか?
一般人は、殺し殺された恨みが増幅し、相手側に憎悪だけが膨らんで行く。
その思いは親から子へ、孫へと続く。
 
戦争ビジネスで利益を貪る者たちにとって好機であろう。
 
真実を追いかけて来た私の目には、今日本の腐敗しきった自民党政治の闇に巣くっている、民衆とかけ離れた政治も同様。
 
結婚して間もない頃、「日本って、アメリカの植民地なんじゃないの?」
パートナーに問い掛けた事がありました。
「その様なものだろう」
答えはここでした。
 
戦争に巻き込まれ、戦争相手だけしか目に見えない多くの人々。
人間の思考がそこに留まり渦巻いて、戦争ビジネスに巻き込まれている真実までたどり着けずにいる。
 
だからこそ、支配者の意のままに操られて行く。
何も知らない幼子の様に!
 
戦争反対!これらのデモをいくら行ったとしても、戦争ビジネスを展開している資本家階級、結託している政治家側には、同情も苦しみも悲しみもない。
只、ゲーム感覚の傍観者だ。
 
彼らが恐れるのは、真実を知られる事。
人々が目覚める事のみであろう。
だからこそ教育を恐れ、それが出来ない様に人々を貧困のままにしょうと企んでいる。
 
ゆえに、世界に類のない民度の高い日本人は、この不景気の中に貶められ、目覚めるのを阻まれて来たのでしょう。
 
今、れいわ新選組の中に、目覚め始めた真の日本人がいます。
民衆の前に立つ侍の姿を見出すのは、私だけでしょうか?
 
様々な個々の知識人がどんなに騒いだとしても、れいわ新選組の政治を変えようとする言動エネルギーの前には、小さく見える。
 
人間の尊厳とは、あくまでも人道的であるべきです。
(貴方が良くて私が良くなければ何事も成り立たない)
母の教えです。
 
様々な個々の人間が、思考を上へ上へと高めて行くしかないのでしょうね。
でも、食べるだけで精一杯の生活からは難しい事。
それでも考える事を止めてしまったら、権力者達の思う壺です。
 
私は、北方領土問題も、拉致問題アメリカの植民地から抜け出さなければ解決は難しい事と捉えています。

リンゴを食べてカイロを貼る!

リンゴ園育ちの私は、リンゴに限らずとにかく果物が大好きです。

 
何時も果物に囲まれて、幸せいっぱい!  
でも今は冬、身体が寒い!
先日は、パート先から戻って間もなくリンゴを半分食べました。
 
すると、身体がゾクゾクして来ました。
このままでは風邪をひくわ!
耐えられず、カイロを背中とみぞおちの所に貼り付けました。
これで良し!
 
こんな馬鹿な事をしても、今の私を咎める人は誰もいません。
亡きパートナーの遺影の前で苦笑い。
生きていたらきっと𠮟られていたでしょうね。
 
生前の母なら
「M子!何を馬鹿な事しているの。腹も身の内だよ!」
と、言ったはず。
 
食いしん坊の私です。
この歳になっても、食べ物では失敗しながら生きて行くしかないみたいです。
あーイヤダ。イヤダ。

原因はカルシウム?

私は現在、ひと月に一度病院通いをしています。

 
血圧の薬とアレルギーの薬、ビタミンⅮが頂く定番の薬です。
三ヶ月に一度の血液検査では、このままで良いとの事。
 
しかし、半年に一度の骨粗しょう症の検査データになりますと、カルシウムが常に不足しています。
当初は、カルシウム不足が原因(今なら分かります)でジュースの蓋があけられず大変でした。
 
ドクターのアドバイスから、食生活に気を付けて三年半。
現在はジュースの蓋は、開けられるる様になってきましたが、数値的には78パーセントぐらいです。
 
先月、ドクターに「骨折の心配もありますがどうしますか?」
と、問われたのですが「このままで」ということにしました。
 
帰宅後、考えました。
私は一日4錠飲むカルシウムのサプリを2錠しか飲んでいませんので、4錠にしてみよう。
そう思ったのです。
 
それから10日後、なんと!立ち上がる時にめまいがする様になったのです。
布団から抜け出す時もクラクラ。
風呂に入って、浴槽から出る時もクラリ。
何か変です!
 
私は、元ドクターの妻です。
パートナーから、様々な事を学んでいました。
こんな時は、「急激に動かずゆっくりと動きなさい。そのままジーっとして、落ち着いてから動きなさい」
それに従って行動。
するといつも通り動けました。
 
でも今までは、滅多にない事です。
(やはりおかしい?)
 
三年前だったでしょうか、長姉がふら付いて入院しました。
原因はカルシウム過剰!
それを思い出して飲むのを止めました。
 
まるっきり飲まず4日。
めまいがすっかり無くなりました!
 
後1週間飲むのを止めて、今まで通り2錠にしようと考えています。
不足は食品から、補う事にしましょう。
 
以前にも、コレステロール値を下げる薬を飲んで半年後、足の裏の感覚がなくなった事がありました。
飲むのを止めて元通り。
今は、「ほんの少し高めで問題ないでしょう」
との事。
 
本当に体調を整えるのは大変な事ですね。
「自分の肉体の変化を常に観察しなければ、健康ではいられない」
どこかの書面で学びました。
 
これもまた未知との遭遇です。
観察しながら、楽しんで生きて行く事にしましょう。

人間の進化

テレビ・新聞を見聞きするだけの日常生活に身を置く。

それだけでは、現世界の真実を知らされぬままに流されて行くだけですね。
政治を深く紐解く事もなく、只々老いていくだけです。
 
何かが変だ!と、そう思って見なければ真実を探り出す事は出来ない。
周りを見渡すと考える事をやめてしまい、日々の雑務に埋没して「考えたくない」と耳をふさぐ人のなんと多いことでしょう。
 
この歳まで「出る釘は打たれる」
「長い物には巻かれろ」
生きる知恵として見てきました。
 
けれど、幼い日から世界はどうなっているのか?
なぜ戦争がおこるのか?
「戦争したらダメダ!」
大人達の会話の中には、私の求めている答えはなかった。
なぜ戦争がおこるのか?
それが知りたかった。
 
今まで生きて、やっと答えを教えてくださる人々に出会うことが出来ました。
この政治団体に、今後の日本を見る事が出来ます。
 
いまハッキリと教えて下さるのは
令和新選組山本太郎議員ですね。
まともに世界の真実を伝え、日本の闇に切り込んでいく真の政治家が現れてくださった事に喜びと感謝の気持ちでいっぱいです。
 
日本人は、世界に類のない民度の高い国民だそうです。
ゆえに人々が目覚める事を恐れ、30年も経済を弱らせた。
日々の生活に追われ、考える余裕もない、奴隷の様に生活を送るしか出来ない国民に貶められて来たのでしょう
支配者が意図的に。
 
けれど、いま真実が見えてきました。
大金持ちに羨望の眼差しを向けるだけでは、益々格差が広がるだけ。
ネットによって真実を探す手段を手に出来る今、若者達が横に繋がり、目覚めた老人達も繋がって政治を変えて行く時が来た様です。
そこに、若者たちの明るい未来が続きます。
 
それこそが、人間の進化につながると思うのです。
 

毛糸のセーター

手洗いがおっくうで、箪笥の奥にしまい込んでいた毛糸のセーターを取り出しました。

年齢を重ねて、暖かさに感動している所です。
寒がりとは言え、洗濯のしやすい、混紡のセーターばかり着用していましたが、
生きているうちに活用しようと思い立ったのです。
 
改めてビックリ!
老化した肉体には純毛のセーターがこんなにも暖かい!とは。
 
どんな動きにもスムーズに対応してくれるので楽です。
昔と違い洗剤が良いので、洗濯したからと言ってちぢまない事も分かりました。
 
今、何枚もお蔵していた派手な色のセーターを取り出し、重宝しています。
捨てないでよかった!
 
昨年まで着ていた混紡のセーターは、肌に付けるとゾクッと寒さを感じて袖を通す気になれません。
 
年齢を重ねると食べ物の嗜好も変わり、着るものも変わるものですね。
私も姉の様に、手編みの靴下の暖かさが身にしみる歳になりました。
 

能登半島地震に思いを馳せて

元日の午後、遠方の友と新年の挨拶を交わし何気なくテレビをつけた。

 
ええー!又大地震!!
能登半島地震被害の映像が飛び込んで来た!
津波警報津波注意報日本海側に出されている!
 
又もなの?!
 
福島の津波が浮かび、テレビにくぎづけになった。
倒れた家屋、寸断される道、崖崩れ、夜空を照らす火災。
この寒空に逃げまどい、どれほどの恐怖を・・・!
紡ぐ言葉が出てこない!震える!
 
災害の多い日本に住んでいるとは言え、被災した方々はルールを守り誰一人取り乱すこともなく、行動していた。
静かに怯え、震え、静かに涙していた。
 
その行動は、亡き両親と同じ。
世界に唯一、民度の高い国民と称賛されると知っている。
 
真冬の寒さの中、逃げまどい避難所に身を寄せる方々。
夜空に火の手が映し出され、すべてを焼き尽くす様な勢い。
一晩中テレビをつけたまま横になった。
 
夜が明けると次々と被害が映し出されて、気の毒としか言い様がない。
胸が搔きむしられブログを書く気力が出ない。
 
他人事ではありません。
ここ日高も、東南海地震がおきたら間違いなく能登半島地震の被災者の方々と
同様でしょう。
過去に、今生きておられたら100歳になっていたであろうコンブ漁師さんの小父さんが、
「わしが小学生の時、大津波があって、海側の玄関から水が入って来て裏手の窓を破って泳いで逃げたんだ!」
それから幾度かの津波経験を話されていた。
 
こうして災害は繰り返されていくのですね。
生きるとは、何と厳しい事でしょう!
 
被災された方々に心からお見舞い申し上げます。

ストレッチ効果

今年の4月末、長姉に春一番の山菜を送りたくて歩き回った。

ええー!
驚いたことに足が思う様に動かない!
草わらに足を取られ、なかなか前に進めない!
ぐにゃりと腰をついては、起き上がるのにもがいてやっと立ち上がる。
いやはや、何と情けない事になっていた事でしょう。
 
そんな馬鹿な!
この現実に我ながら驚愕した!
 
どうしたらいいの!?
答えは一つ!
筋トレ、ストレッチしかない!
 
以前にもブログに書きましたが、ひたすら真面目に今も毎日続けています。
 
効果あり!あり!
今では靴下もズボンも立ったままはける様になりました!
すると膝も股関節も、ストレッチをしているときは痛いですが、
終わった後は普通に行動ができています。
もちろんお座りも。
ただ、若い頃の様に梯子にはスイスイと上れませんが、何とかなっています
 
よかったです!
「そうです!筋肉は何歳になってもつくんです!」
パソコンを教えてくださっている先生の激励です。
 
先生、お陰様で今年も無事に乗りきれそうですよ。
本当にありがとうございました!
<(_ _)><(_ _)>

瞳の中の宇宙

6年が過ぎて行きましたが、パートナーと死別したあの時、その瞬間の現象が今も私の心を捉え続けています。

 
大腸がんから肝臓、肺へと転移し闘病二年半。
最後は我が家で。
パートナーの意思を汲んで在宅医療に。
 
帰宅した翌日、すっかり瘦せ細ってしまった彼は布団の上に正座した。
そして深々と頭を下げた。
「今言わなければ、もう言えなくなってしまうから今言います。
本当に長い間お世話になりました。
僕の人生の中で一番お世話になった人なのに、僅かなものしか残してやれず、本当に申し訳ない。
中略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
僕は、もの凄く幸せだった。楽しかった。
だけどM子ちゃんをこんな事にしてしまうなんて思わなかった。
本当に申し訳ない。」
そこまで言うと大きく息を吸い、又ゆっくり口を動かした。
「だけどM子ちゃんと暮らした四十何年がなかったら、僕の心を癒す場所はどこにもなかった。
本当にありがとうございました。」
まるで恩師にでもする様に、厳かに深々と頭を下げた。
 
闘病前は84キロ、そして60キロと瘦せ細り、立ち振る舞いもおぼつかなくなっていたパートナーは、帰宅直後、玄関前までゆっくりゆっくりと足を進め、うなだれていた。
「僕はもう、家の周りを歩く事も出来なくなったんだよ」
発した言葉は弱々しかった。
その姿が胸をよぎり目頭が熱くなった。
身体が崩れる程胸が痛い!
 
パートナーはけじめをつけていたのだ。
声は以前とは比べ物にならない程弱々しかったが、言葉として発する内容は清らかで凛としていた。
 
分かっていました!20歳の年齢差があるのですから普通に考えて見ても
パートナーとの死別は早くなる!
けれど、そんな計算で結婚した訳ではない。
 
五日後、パートナーは旅立った。
 
ベットに仰向けに横たわった彼は、もう言葉を発する事もなく肉体は固まったままであった。
浅い呼吸、しかし目だけはしっかり見開いて覗き込む私を捉えている。
声を掛けた!その時、私は瞬時にその瞳の中に吸い込まれた!
これは何なの??不思議な感覚だった。
そこには紛れもなく宇宙が広がっていたのだ!
戸外で見上げる夜空、いや宇宙の中を飛んでいた!そんな馬鹿な?
パートナーと宇宙は一体化している?
そして私もその中の一部だった。
 
ふと我に返る。
 
気がつくと彼の目じりから、ツーと涙が流れていた。
それがなにを意味していたのか?
なにを伝えようとしたのか?
謎解きは尽きないけれど、近頃やっと答えにたどり着けた様な気がしています。

栗木

我が家の栗が、9月末より収穫が出来る様になってきました。

 
どうやら待ちわびていたのは、私だけではありませんでした。
昼間は私、夜はアライグマ、そして野ネズミでしょうか?
 
一人暮らしになってから夜の散策は危険!とみなし、やめています。
ゆえにそれを確かめる勇気は、今の私にはありません。
 
期待はしなかったのですが、もしかしたらここでも実るかもしれない。
そんな感覚でパートナーが植えた栗木です。
 
あれから40年余り、かつて経験したこともない暑い夏をへて見事に実ってくれました。
虫食いは四割。良さそうな所はお世話になった方々に届けました。
 
幼い日、父が畑の隅に栗の木を植えていた。
「父さんが死んだ後、皆喜ぶぞ!」
今、あの笑顔とパートナーの笑顔が重なりました。
 
私が死んで、どなたかがここを引き継いで下さったら、栗の実をきっと喜んで下さる事でしょう。

もったいない!長姉の才能

半年ほど前でしょうか。
地方の養護施設から札幌に出て、(高卒)ガソリンスタンド勤務の青年の現状をテレビで見ました。
 
誰も頼る人もない中で、生活を相談員にアドバイスを受けていました。
決して多くはない給料の中から、僅かでも貯金をしたいと通帳を握りしめている姿に胸が痛くなりました。
 
小奇麗なアパートに真新しい洗濯機や冷蔵庫の側で、うつむき加減に相談していましたが、その相談員の方も、そこまでのアドバイスは、仕事の枠外と言っていました。 
 
昭和の時代、6畳間に3人の寮生活をおくった経験から思いは重なりました。
とにかくお金がなかった!
でも、あの時代にしては給料は良かった筈。
けれど、田舎から出てどう生活をしたら良いのか?分かっていなかった。
 
そんな経験から13歳年上の長姉。
彼女の生きかたが、手本になりました。
何時も明るい我慢と忍耐のゴットマザーでした。
 
義兄は大工の頭領でした。
弟子を抱えていましたので、その稼業を支えお金の使い方はとても上手。
計画的に集められた食材の利用は、栄養を考え料理も上手でした。
 
こんな人が若き青年のアドバイザーにいたら、地に足のついた生活を送って行けるだろうと思うのです。
 
初めから裕福な家庭で育った人々は、欲望の全てはお金で解決するもの。
それしかない。と考えている様です。
 
私達兄弟姉妹は、開拓農家で育った経験から、貧しい中どうすれば僅かなお金で生き延びていけるか?
その生活を日々学んで生きて来たのだと、今にして思うのです。
 
山野には、沢山の食べられる植物が自生しています。
そこに向ける知恵さえ有れば、ただで野菜を確保する事が出来ます。
 
多くの若者達が都会を目指す中で、思うのです。
農家の子供達は、例えお金に困ってはいても食べ物には恵まれている筈です。
少なくとも、腹ペコではありません。
 
若者達に、考えて頂きたい。
自然の素晴らしさや、価値観の多様性を。
そこに気付けたら知恵ある老人から、様々な事を学ぶのですよ。
 
私は何時も思うのです。
その場に長姉を立たせたい!と。

有意義な時間を頂いて

パートナーを失って、6年が過ぎて行きました。

 
この悲しみを乗り越えるのに、寄り添って下さった友人K氏にどれほどの感謝を申し上げでも足りません。
心から心から感謝申し上げます。
ありがとうございました!<(_ _)><(_ _)>
 
失意の中をがむしゃらに生きて来た様な6年間でしたが、改めて自分自身を振り返る時を戴いた事に気付きました。
 
そうでした!苦難の時には、必ずどなたかが私の側に寄り添って下さっていました!
幼い頃には祖母が。母が。そしてかけがえのないパートナー。K氏。
そして今、私の夢を叶える為に尽力して下さるH氏。
 
その方達との出会いは、まるで神様が寄り添って下さる様に私の側に現れて下さっているのです。
只々、深く深く感謝致します。<(_ _)><(_ _)>
 
今、改めて人生を振り返る有意義な時間を頂いた事に気づかされているのです。
この時は、何と楽しく面白い事でしょう。
私と言う一人の人間が、その時々を何を思い行動して来たか?
それを微細に解明する事は、人間研究として非常に面白いです。
この境地にたどり着いた今、孤独という厄介な代物から解放されて行く自分を
みつけました。
 
「M子ちゃん、これからは自分の持っている全ての力を使って生きて行きない!」
これが私と言う人間性を、何時も否定する事なく見守っていて下さったパートナーの遺言でした。
ありがとうございました!
私は命尽きるその日を楽しみに、自分の出来る精一杯で生きて行きたいと思っています。

後悔したくなくて

時折、幼い日の記憶が甦り、なぜあの時

「行かないで!」
と、言わなかったのか?どんな環境であったとしても言うべきだったのでは?
そう私が、私を責めている。
 
私はそんな思いを二度としたくなくて、今まで生きてきました。
 
一番大好きだった伯母が、私の生まれ育った田舎から家を畳んで都会へ引っ越して行く日。
伯母の友人・知人がバス停に集まり見送った。
私も母に手を引かれてその場にいた。
 
胸が搔きむしられるほど悲しかった。
「行かないで!」
口には出せずに大人達にはじかれる様に、後ろに立っていた。
じりじりと胸が痛んで喉も痛かった。
泣きたくなるような思いをこらえていたのを今でも思い出す。
 
ここまで生きてその年月が、定かではなくなったけれど、おそらく小学2.3年の3月だったでしょうか?
今になってもあの別れの悲しみは、心の底に鎮座している。
 
旅立っていく半年ぐらい前から、伯母の引っ越しは大人達の会話の中から知っていた。
(よく遊んでもらった従妹の就職が決まり、札幌へ引っ越す事にした)と、言う。
 
聞き分けの良い私は分かっていました。「行かないで!」
と言った所で幼い私には、どうする事も出来ないのだと。
 
私が大人だったら良い方法を、見つけられたかもしれない。
しかし、今は無力なのだと。
 
その後、幾度かの再会はあったが伯母は後悔していた。
「家は、売らなければ良かった!そうしたら戻れたのに!」と。
 
伯母の人生は過酷でした。
終戦直後の樺太から引き揚げる途中、ご主人をロシア人に殺された。
その上身重の叔母は、引き揚げて間もなく頼りにしていた長男が行方不明になったと言う
折に触れ、「何処に行ったんだろう?」と涙ぐんでいた姿が、今も私の胸を掻きむしる。
 
晩年ガンを患いながら、嫁いだ子供達に支えられていたが最後は自死の道を選んでいた。
 
私の後悔は伯母が、家を売らなければ良かったと嘆いていたのを聞いてから。
その後、苦難の道を歩んでいる姿が感じられた時から。
 
幼い私の「行かないで!」
が、伯母の人生をもう少し幸せなものに出来たかもしれない。
そう思われて後悔してきました。
 
あの時からだ。
自分の思いを伝えるべきと思った時には、伝えようと心して生きて来たのは。
 
振り返れば様々な事がありましたね。
そんな思いとは裏腹に、人間社会を生きるのは何と難しい事でしょう。