体験こそが最大の理解?

発展途上国の子供達が、遠くから水を運んでいる姿を目にする時、どれ程過酷な
作業か私の身体が覚えています。
 
開拓農家で育った私達兄弟姉妹、そして祖父母、父母。
過酷な時代を生きていた姿は私の全てに沁みついている。
 
そして思うのです。悲惨な体験をした人間が決して人間性を失う事なく生きてこそ、人間としての価値が見いだされるのだと。
他を思いやる心を忘れずに生きる事、それこそが母が私に教えた「人間として誇り高く生きなさい」につながるのでしょう。
 
幼い日から目にした母の生き方は、決して狡さをしない心の強い姿でした。
その姿はきっと今の私を形作っているのだと思っています。
 
南斜面の開墾地は大小様々な石、人力ではとても動かす事などできない岩石、土より石の方が多かったと言っても過言ではなかった。
それらを祖父母、父母が生涯を掛けて開墾したのです!
今では立派なリンゴ園になっています。
幼い日、それらを手伝った記憶から、肉体を使ってしか成しえる事は出来なかった苦労を知る事実。
そこに立ち向かった生活の中には、子供さえ戦力として組み込まれていた時代でした。
「働かざる者食うべからず」
母が私に良く言っていた言葉です。
 
母はトイレが一杯になると、桶に入れ天秤棒で担いで大きな穴の中に運んでいました。
母の肩に食い込むあの天秤棒はその重さを表し、それを文句も言わずやり遂げていた偉大な母です。
その仕事は母が50歳半ばまで続いていました。
それを母一人でこなしていたのを覚えています。
 
そして私も、山から夕食に使うジャガイモを籠にいれて運んでいた!
子供にしたら、母の汚物処理と同様の苦役で、風呂釜に側の小川から水を貯める仕事も同様です。
早朝4時半からリンゴの袋掛け、小学5,6年になると他所の子達も駆り出されていた。
そんな時代を生き抜いて来ました。
 
世界中の様々な苦難の中を生きている人々と同様の体験は、この日本の戦後の姿でした。
その体験によって物事を深く掘り下げて見る目が養われたのだと確信しています。
しかしそれはあくまで弱者目線で、富める人々の真の姿を知るには上流階級で育ったパートナーとの関わり以外ありませんでした。