神様はおられる。
人間が生きる上でこの存在を肯定するか否かで、
人生が大きく変わるに違いない。
実家も婚家も仏教徒である。
だから、違和感なく過ごしてきましたが
神様を意識したのはいつだろうか?
と、考えたとき、祖母の存在を思い出すのです。
幼い日の正月は祖母のこんな言葉から始まりました。
「正月の神様がね、あっちの街角、こっちの街角から
カサコソ、 カサコソ、音を立てて、
少しずつ少しずつ近づいてくるんだよ」
カサコソ、
少しずつ少しずつ近づいてくるんだよ」
今でいう、クリスマスではなく年末(12月27、28日)の頃、
決まって大家族(当時は、祖父母、父母、兄弟姉妹7人の子供
あわせて11人)が、1月20日頃までタップリ食べるだけの餅を
早朝からついていました。
あわせて11人)が、1月20日頃までタップリ食べるだけの餅を
早朝からついていました。
立派なまゆだまも飾り付けられ、家の中が一気に華やいだ。
私は年齢を重ねるたびに、 その楽しさが楽しみになって
年末近くになると、冬にもかかわらず窓を開け、
隣家や大きな納屋の周りに目を凝らした。
年末近くになると、冬にもかかわらず窓を開け、
正月の神様を探していたのだ。
会いたい!と、思っていた。
善、悪のけじめは日常の生活から学んでいた。
「悪い事したらダメだよ。神様が見ているんだよ」
「誰も見ていないと思っても、 神様はどこかで必ず見ているからね」
「噓を付いたらダメだよ」
祖父母も父母も、何かにつけてこう語っていた。
こうして私の中に、神様が存在するようになったのです。