神様が唯一平等となされたもの

幼い頃から、格差、すなわち不平等な事が凄く気になる性格でした。

これが意味するものは、育った環境にあると気づかされます。
 
「食べたい口は皆同じ、食べ物に差をつけてはいけません!
 そんな事をすると根性が悪くなります!」
何かにつけてこの言葉を発していたのは母でした。
それゆえ、食べ物はいつも平等に分け与えられていました。
 
昔は、よく結婚式の引出物はらくがんのタイでしたが
母は、計りで計って分けてくれる徹底ぶりでした。
そんな生活の中で、平等がねづいたのでしょうね。
兄弟たちも、他所でもらった一つの饅頭さえ持ち帰り
家族の人数分に分けていました。
 
だから皆、手伝いばかりでも文句も言わずにいたのでしょうね。
母の機転で、粗末なものでもいつもお腹いっぱいの生活でした。
今思えば、大家族で土、日ともなると親類の人たちがよく泊りがけで
来ていましたから、その人たちの食事も賄っていた母に脱帽です。
母が、そのことでふくれっ面をしていた姿を見た事がありません。
 
そんな家庭で育った私ですが、幼い頃から様々な事に疑問を感じる
性格でした。
 
小4の頃だったと思いますが、長姉が親類から古いラジオを
もらってきました。
それは、私が始めて文明と接した時でした。
 
そこで私は、福沢諭吉の有名な句
(天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず)
を、聞いたのです。
(感動しました!)
その時から、世の中を(本当にそうなのだろうか?)
と全てにおいて疑問視するようになりました。
 
そうすると、神様の意志と現実は、かけ離れているのでは?
神様は全てに平等のはずでは?
現実の世界の貧富の格差は?
けれども、現実的に考えてみると、神様が自ら姿を現され
語りかけた姿を見た人はいない。
(神様が言った。神様が言った。)
と、人間が言っている。
そして私も動植物の、多くの命を頂いて生きている。
弱肉強食の真っただ中にいるのだ。
単なる動物の一端として存在しているだけなのだ。
と、気づかされたのです。
 
ここまで生きて、やっと分かったことがあります。
神様が唯一平等となされたもの、それは(死!)
なのだ、と。
富める者にも、貧しき者にも、必ず訪れる(死)。
誰もが、決して逃れることのできないこの現実こそが
神様の創られた平等そのものなのでしょう。
 
ゆえに後のことは、人間が自らの知恵で克服していくしか
ないのです。
他人様から見られると(そんな事は、とっくの昔に分かっていたよ!)
と言われるでしょうが、私自ら、様々な体験の中からやっと掴んだ
自分自身への答えなのです。
 
「人間として、誇り高く生きていきなさい」
母が私に残した言葉です。