私の父は、文字の書けない人でした。
私は、物心着いてからそんな父を、恥ずかしいと思っていました。
(何で勉強しないんだろう?)
と。
その時代の、生きる環境の過酷さを、 まるで理解できていなかった。
無知な自分に気付いていなかったのです。
(大人の、性の快楽の上で私は生まれた?)
どこかで、自分は何のために生まれ、生きるんだろう?
その疑問をもった私の悩みでもありました。
それ以前に、生まれた以上、 生物として食べなければ生きていけない。
この最低限の所を、 親として十分に果たしている父母に
気づいていませんでした。
気づいていませんでした。
あくまでも、生んだのだから当然の事と思っていたのです。
大人になって初めて知る、生きる事の過酷さ。
父は、開拓農家の2代目として、 家長としてどれ程の重圧の中に
生きていたか、家庭を持って初めて分かったことです。
生きていたか、家庭を持って初めて分かったことです。
りんごの木を植えても、その木からりんごを収穫し、
生活出来るまで20年はかかります。
生活出来るまで20年はかかります。
それまでの間、 冬は決まって出稼ぎに出て生活費を工面していたのです。
休むことなく働き続けた父に、今なら心の底から感謝いたします。
温厚で実直な父を理解し、 感謝できるまでには長い時間がかかりました。
父は今でいういじめにあっていたそうです。
口下手な父が、学校へ行くのをやめて労働を選んだ理由です。
「父さんは、14の時から大人と同じ賃金をもらったんだ!」
そう言う時の父は、実に誇らしげでした。
我が家が倒産して間もなく、甥がなくなりました。
告別式で会った父の言葉です。
「m子、父さんが今まで生きてきて、 良い事なんてほんの少しだけだったぞ! 後は大変なことばっかりだったぞ!」
右手の人差し指の先に親指をあてて、人生を語ってくれました。
40歳にして、初めて父を理解し、尊敬できた瞬間でした。
今、私が子供を持ち、その子が私の様な疑問を持っていたとしたら
「残念ね、私もそんな感じで生まれたのよ!」
そう、答えるでしょう。
今思うのは、口頭で人生を語ってくれる他者がいたなら、
私の人生は違っていた?
そんな気がするのです。