戦争は仕組まれた産物 

人間として生まれたからには知るべきです!
 
戦争は仕組まれて起こって来た。そして今も現在進行中。
この真実がやっと表に出て来ました。
それを冷静に解読。なぜ?なぜだ?
多くの人々が願っている平和がなぜ訪れないのか?
そこには何があるのか?。
それらの疑問を持ち続け、学の無い私は日々の暮らしに翻弄され、今まで生きて来ました。
 
ヨーロッパの多くの国々は、過去においてアフリカ、東南アジア、南米の国々を植民地とし搾取し続け母国を富ませて来た。
幼い日から格差が気になっていた私は、訪れた事はないけれど映像で見るヨーロッパの美しい街並みに、搾取されて貧しさに喘ぐ植民地の人々の苦しみを感じていた。
 
あれだけ声高に北方領土を返してくれ!と叫んでも今まで叶う事はなかった。
北方領土問題は、終戦ソ連に占領された!?
 
その陰にはアメリカが攻め入るための船を貸していた。これが真実。
アメリカの公開された文書で明らかになったと言う。
何も知らず幼子の様に見事に操られていた日本人。
けれども権力者達は、そんな中でも富を得ていた。
知らなかった事にして、見なかった事にして、聞かなかった事にして。
 
知るべきです!全ての元を!
 
世界を牛耳っている影の支配者は、決して平和を望んではいない事を!
彼等の利権の為に常に戦争を仕掛け続けているのです。
核を持っている国々が、持っていない国々を核で脅す。
如何なる国も、核を持とうとすれば息の根を止めようとまでする。
 
何時も思っていました。
自分達が持っていて、それを廃棄もせずに相手が持つのを阻止するのはおかしい。
そんな事をしておきながら自由、平等を掲げるのもおかしい。
そんな馬鹿げた事がいつまで続くのでしょうか。
 
私達はカルト宗教の中で洗脳され続けているのと、何ら変わらない現実に気づくべきです。
 
サアー、私達日本人は歴史の真実を学び直さなければなりません。
この歳になって歪曲されて教わっていた事によって、自らの価値判断がいかに陳腐なものかを思い知らされる私の日々。
何と無駄な時を過ごしてしまった事でしょう。
 
戦後、占領下において価値観が真逆になったと嘆いていたパートナーの苦悩を
私は今味わっています。
 
今から死ぬまでの時間は、真実を探して生きて行こうと思っています。
幼い日に母から教わった「人間として誇り高く生きて行きなさい」
この事だけは私自身の核として、何時の時代も何方に聞かれても変わるものではない。
良かったー。
たった一つですが確信出来るものがあって!
ここで僅かに救われています。
 
不覚にも、見事に操られて生きて来てしまった今までを正さねばなりません。
大変な事です。
 
北方領土問題は、何時もアメリカが邪魔しているから解決しないんだよ」
パートナーが私に教えてくれていた事です。

まどかちゃんを家猫にするまで

かれこれ20年前になります。
牧場が倒産して以来、もう外には猫を置かない様にしようと思っていたのですが、パートナーの優しさが又もや野良ちゃんを呼び寄せました。
 
パート先から戻ると
「お腹を空かせて余りにも可哀そうだから餌やったんだ。
 それが今まで見た事のない綺麗な猫なんだよ!
 ガラガラに瘦せてたんだ。
 オス猫だから増えないから大丈夫だよ!
 
そう言っていたので安心していたのですが、なんと秋には6匹の子猫を連れて来たではありませんか!
 
母さんニャンコだったのです!
確かに綺麗な猫です。雑誌で見たことがあるアメリカショートヘアの様ですが、野良をやっているのですから雑種でしょう。
こうなっては仕方がありません。
あれからパートナーは毎日餌をやっていたのですからネ。
 
所が12月の末になると大きくなって来たとは言え、人間に例えれば少年少女ぐらい成長した子供達を置き去りにして、親猫は姿を消しました。
外にはキツネがいて危険が一杯です。でも家には入れて上げれません。
厳しいとはいえ厩舎も倉庫もあり、私達は毎日餌は欠かしませんのでお許しください。
 
子猫達は私達を怖がりもせず触らせると言う事は、近隣の家猫なのでは?と思ってみましたが牧場の厩舎や、倉庫で育ったとしたら確かめようもありまん。
それに猫達には国境はありませんからネ。
 
子猫達は、オス猫3匹、メス猫3匹でした。
どうせなら楽しい方が良い。
メス猫にはさくら、もも、すみれと命名
すると「まるで宝塚みたいだね!」って友に笑われました!
 
翌年さくらが出産しました。
離れの前の花畑に二匹です。
さくらだけは、兄弟姉妹猫の中で野性の強さを持った荒い性格でした。
子供を守ろうと飛び掛かって来ますので怖い!
ゆえに一度も触らずソッと見守るだけにしていました。
が、生まれて三週間ぐらい経った頃、さくらの留守中、来客の方が子猫を抱き上げてしまったのです。
 
それからです!さくらは子猫を捨て二度と戻って来ませんでした。
翌日パート先から戻ると離れのベランダの前で、子猫の一匹が大きな声を上げ走り回っています。もう一匹が居ないと探している様でした。気になって探しました!
所々花は咲いていましたが、パートに出て以来手が回らず雑草まみれの庭に鳴いている子猫を発見。
驚きました!
身体中が濡れ、ギンバエが群がり、全身に卵を産み付けていたのです!
死骸にハエが群がるのは分かりますが、まだ生きているのに!
目元と口元は、そうでもなかったのですが、子猫の柔らかな毛に隙間なく産み付けているのです!
それはまるで鎧をまとっている様に重く、子猫を覆っていました。
今思い出すだけで身震いします。何と悍ましい姿でしょう。
このままでは生きたままウジ虫に食い殺されてしまいます!
とてもほったらかしには出来ません。
連れ帰り、ぬるま湯に浸しながら取り除きました!
時間をかけ梳き櫛で搔きとったのです。
でもまだ(さくらが帰って来る!)と思っていましたので、元の場所に戻しておきました。
 
翌日パート先から戻ると、二匹の子猫は花畑の茂みからベランダの前に出て鳴いていました。
子猫の澄んだ眼差し、必死に親を探し、お腹か空いたと鳴き叫ぶ声。
私の耳に心に突き刺さりました!
とても自然に任せ見殺しにはできません。
 
家の中に!
子猫の面倒を見るのは大変です。ミルクを上げるのは良いのですが、どこにオシッコやウンチをするか分かりません。ひとまずは高さ80センチはあろう大きなダンボール箱を見つけ半分はセーターを敷き後の半分は新聞紙を細かく裂いてトイレ用にして面倒をみました。
 
3日程私が面倒を見ていたら奇跡がおきました!
見るに見かねた様に家猫トマス(5歳)が自らダンボールに飛び込んで面倒をみてくれたのです。
 
不思議な事が起こりました。
子供を産んでいないトマスにオッパイが出る様になったのです!
その後、まるでトマスの産んだ子供の様になりました。
 
その時メス猫は私が(まどか)と命名、オス猫は(武蔵)とパートナーが命名しました。
 
あれから18年、6年前にパートナーが亡くなり、5年前には武蔵が亡くなりました。
家猫はまどちゃんと武蔵を入れてから、多い時には12匹になった事もありましたが、当時の猫達は何時しか黄泉の国へ。
 
今、その頃からの家猫はまどちゃんだけになりました。
現在癌を患い、昨年亡くなった福ちゃんと入れ替わる様に介護が必要になりました
便が漏れ出し少しずつ瘦せてきています。
それでもストーブの前のバスタオルの上で横たわって眠っています
福ちゃんの忘れ形見の三匹の子供達も時々甘えています。
人生の一ページ。
こんな日常こそ、平穏な日々と言えるのかも知れませんね。

老いを生きるのは痛さとの戦い

年齢を積む程に実感しています。

肉体の老化を。
 
とにかく全てが固くなって、柔軟性に欠ける。
肉体も精神も。
明日死ぬならこのままで良いでしょう。
 
残念ながらそうは行かない様です。
終わりの日が分かりません。
 
ならば生きている限り自分の足で立っていたい!
イヤ!何としても立つのだ!
 
バランスの良い食事はもちろんですが
その為にはどうすれば良い?
分かっています。
様々な筋トレ、ストレッチを続けるしかないのです!
 
毎日毎日、サボる事無く続けなければすぐにガチガチに戻ってしまいます。
でもそれをやるととにかく痛い!
サボりたくなりますね。
でも、やらなければバランスを保てず転ぶ様になります。
すると怪我をするに決まっているのです!
 
老いて生きるのは痛くて辛い事!
覚悟すべきなのです!
「M子、死ぬまで頑張るのだよ!」
耳元へ亡き母の激励が飛んで来ています。

フキノトウのお味噌汁は春の味!

春が近づく度に、帰宅するタクシーの中から道路脇に目が行く。

国道を外れ我が家へ。
坂を上って進む山間の道は自然が一杯です!
 
(もう、出ているかしら?)
私は知らず知らずのうちにフキノトウを探しているのです。
 
幼い日から春一番に手に取って嗅ぐフキノトウの香りは、冬を乗り切った賛歌そのものに思えて私の心は喜びに震えるのです
味も又同様に素晴らしい!
 
でも開拓農家で育った当時、食べる習慣はありませんでした。
母は、「食べれるって聞いたけど苦いよね」
そう言って一度も膳に載せた事はありません。
 
ただままごと遊びに、大きくなったフキノトウを採って来て葉をむしり、その茎にフキノトウの花をギュッと詰め込んでカット。
綺麗に並べて巻きずしに見立てる。
良い匂い!
遊びの中でも強烈に漂うフキノトウの香りが何とも言えず好きでした。
指はあくがついてまっ黒!
そんな事はどうでも良かった。
洗っても簡単には取れなかったが香りがたまらなく好きでした。
たから良く遊んでいましたね。
 
その私が、母や姉達でさえ挑戦した事のないフキノトウの味噌汁に手を染めました!
 
そのきっかけは40年程前。
ウトナイ湖畔在住の御高齢の奥さんから、うどのお味噌汁をご馳走になったのが発端です。
 
それまで、我が家の周りには数え切れないほどフキノトウが芽吹いていましたが、
苦いに決まっている!
そう思って本や雑誌、テレビで紹介されてるのを見ても、料理をしようなんて一度も考えた事はありませんでした。
 
山菜の食わず嫌い!
その時奥さんも心得ておられたのでしょうね。
「うどの味噌汁、話を聞いても食べる気にならないと思って、作ったから食べてみて!物凄く美味しいんだから!」
 
勧められてビックリ!
余りの美味しさにパートナーと顔を見合わせました。
うどの香りが味噌とあいまって苦さも気にならず本当に美味しかった!
 
「美味しいでしょ!私もつい先日近所の奥さんに教わったのよ。山菜採りに行ってウド見つけたんだけど細いのしかなくてね、採るのやめようと思ったの。
そしたら細くて酢味噌和えに出来ないのは、皮をむかずに葉っぱも全部使って味噌汁にすると良いって。
根っこの所だけ皮をむいてね。最後に卵を溶いてふわーとかけると苦みが気にならなくなるよって。」
 
奥さんは私達の美味しそうに食する様子に満足しながら
「その時はね、話だけ聞いておこうと思ってたら、帰りに作って食べさせてくれたんだわ。それで分かったのよ!美味しいって!」
(山菜の食わず嫌い)私も同様にうどの酢味噌和えしか知りませんでした。
山菜に対する心境はどなたも同じ様です。
 
食べ方を教わって以来、私は山菜料理の好きなパートナーの為にうどの味噌汁、うどの皮のきんぴら、サラダも作る様になりました。
 
その数年後、私は(フキノトウも同じ様に味噌汁にしたら良いのでは)と思い立ったのです。
 
的中でした!
これも又うどにも勝る美味しさです!
何度も作っているうちに、今度は味も見た目も良い作り方がひらめきました。
 
まずフキノトウは小さめの出来れば日陰に生えているのを使う。(その方が苦みが少ない様に思われます。少々大きくても大丈夫です)
1,ボールに水をはり、その中にフキノトウの葉っぱだけを入れます。
 (我が家の周りには、フキノトウが群生していますので贅沢に使えます)
2,卵を一個溶いておきます。
3,鍋に適量のだしを入れた味噌汁を煮立てます。
4,その煮立った汁の中にフキノトウの葉をパッと放し、溶いておいた卵をふ  
  わーとかけて火を止めます。
  (汁を煮立てた状態でなければフキノトウは茶色に変色して、見た目が悪 
   いです。煮すぎると味は落ちます。)
これで料亭の味にも勝る出来だと思います!
とにかく美味しいですよ!
 
この料理法を姉の一人に伝えたらアッというまに広まりました。
フキノトウのお味噌汁は春の味。
今では兄弟姉妹、皆春を待ちわびています!
 

ドデント!

パートナーと結婚して初めて迎えた冬の日の事です。

 
早目に馬達を放牧し、馬房掃除を終え、少し離れた町へ買い物に出かける事にしました。
 
12月半ば、昨夜降った雪が3センチばかり積もっていたと思います。
私達は慌ただしく身支度を整え車の方へ向かいました。その時!
「ドデント!」
家から出て僅か2,3メートル歩いた所でパートナーは、そう叫びながら見事に両手両足を上にすってん転び!
すると照れくさそうに苦笑いしながら立ち上がり
打ち付けた腰のあたりを痛そうに擦りながら
 
「どうも雪道をを歩くのは苦手なんだよナァ!北海道の人って歩くの本当に上手だよネエー」
「どこが違うんだー??」
おそらく北海道に移住して4度目の冬を迎えての事と思われました
 
そう言われても?
パートナーは私の足元に目を向け頭を傾げています。
 
私は何と答えて良いのか見当もつかず、只その見事な転び方と同時に発する
「ドデント!」
の言葉が可笑しくて痛さを心配する思いは超えた。
人間失格です!
私は不本意にもクスクスと笑ってしまいましたよ!
この人は本当に人を楽しませる才のある人ね!そう思って。
 
その後、買い物を終えて帰宅するまでに
「ドデント!」と叫び三度は転んでいました!
ふらつきは数えきれない程です。
時にはキャシャな私にしがみついたり、(当時は凄く瘦せていました。今は逞しい小母さん)何か変です!
 
帰宅後靴箱の前で
「その靴、おかしいんじゃないの?」と、私。
 
するとパートナーはお気に入り靴を指摘され目をカッと光らせた。
肩にもグイっと力が入っているのが分かりました。
 
「まさか!かの有名なSさんから貰ったものだぞ!」
と、語気を強め脱いだ靴を持ち上た。
そして眉間にしわを寄せ、しげしげと見つめている。
 
そうでした!そうでした!
この靴はSさん(かの有名な芸能人)から頂いたんだと、前々から自慢して大層大切にしていた靴ですよね。
分かります!分かります!
ダークブラウンのしゃれたこの靴は、田舎町では到底手に出来ない代物ですもの!
 
とは言え長靴を履いて仕事をする時には転んだりしていません。
やっぱり変です!
私はふとパートナーが靴箱に納めた靴を手に取り靴底を見ました!
 
ここだー!原因はここにあり!
推理小説に匹敵する謎解きみたい!?
 
「これ冬履いたらダメでしょ!」
私と20歳の年齢差。社会的な知識には頭を下げっぱなしの日々。
日頃、別に萎縮している訳ではないが
チャンス到来です!
 
「エエッ!どうしてダ?!」
「滑り止めがどこにもないでしょ!だから転ぶのよ!」
 
パートナーは靴を取り上げ
「ここか!ここが問題なのか?!そんな事考えても見なかったよ!
と、驚いて靴底を見る。
目は完全に点になっていた。
靴底はツルツル。
片手で触りながら「なあーるほど!」と呟くと大きく頷いた。
 
以前私は、札幌の地下街で同僚と待ち合わせをした折、同じような経験をしていた。
地下街から外に出たとたん、僅か2,3センチの雪に足を捕られ同僚は強く転んだのです!
思いっきり!
交差点を渡るのにも私にしがみついてやっとの思いで歩いていた。
 
帰宅後、好奇心旺盛な私は夏靴を持ち出して確かめてみた。
危ない!ズルッと転んでお尻を打ちましたよ!
立ち上がってからもツルツル滑ってまともに歩けなかったのです。
 
この件はこれで納まりましたが、冬が来る度に
「ドデント!」
と、ズッコケたパートナーの姿が今も私の笑いを誘ってくれています。

大雪

昨夜から小粒の雪がちらつき(明日は雪が積もっていたら大変)、そう思って床につきました。

 
朝方と言ってもまだ午前三時。私の顔に握りこぶしを擦りつけられている様な感覚で目覚めました
するとずっと下痢便続きのまどちゃんが、ストーブの前から少し離れて敷いた布団に横たわっている私の顔に、自分の頭を擦り付けて私を起こしていたのです。
まさか!布団にウンチがついていないよね?
最初に浮かぶのはそれです!
ストーブ周りにのガードの側には常にバスタオルを敷いて、まどちゃんのお尻から漏れ出すウンチを吸い取ってもらっていますが、100%ではありません。
良かったー。
見回すと大丈夫でした!
(お腹が空いたと言っているのね) 足元にまとわりつくまどちゃんを伴い
大好きな魚をチンして上げようと台所に立ちました。
 
あらー!大変だ!外に目を向けると向かい側の物置小屋の屋根に雪がどっさり積り、周りも雪で真っ白、三十センチはありそうです!
 
とっさに今日も明日も仕事は休みと思い、ホッと胸をなぜおろしました。
朝起きて、ゆっくり除雪すれば良いのです!
 
そのために2月と3月は、2回ずつ有給休暇を頂いているのです。
大雪の時は車が走れませんから。
良かったー!
これで焦らずゆっくり除雪できます。
今日中にやれば良いのです。
日高は滅多に雪の日が続きません。
 
午前中ご近所さんに手伝って頂き、除雪は無事終えることができました。
天候は予想どうり、その後は晴、明日も明後日も晴模様。
冬でも晴天の日が多い日高。
太陽が明るい!だから日高が大好きです!

口だけ青春!

長姉よりこの言葉を聞いた時思わず噴き出してしまいました!

私より13歳年上の姉です。
 
難病を抱えながらも、何時も明るく振舞っていますが肉体の衰えには勝てず
転んで顔面を打ったとか、足がもつれたとか言っていますが、口は何時も滑らかに語っています
 
自分に置き換えてみても、肉体の老化を抜きにするとおしゃべりはまだまだいけそうです。
 
回りを見ますと足腰が痛いと言ってはいるものの、おしゃべりは至ってスムーズ。
私を含めそんな人々にはピッタリではありませんか!
 
「口だけ青春!」姉譲りのこの言葉。
「その言葉頂き!」
もう幾人かの人に言われました!
 
ですがおしゃべりも相手あっての事、この年齢になって気がつきました!
話さずにいると、口がもつれて来ますね。
孤立しない為には、自ら出向く事を考えなければなりません。
 
しかしながら、人様の邪魔にならない様に生きるのは難しいです。
時々無性に話したくなって☎すると、嫌がらずに相手をして下さる友の方々
そして姉達に、何時も感謝で一杯です!

コロナに思う

本日、やっと5回目のワクチン接種を終えることが出来ました。

5回目ともなりますと、さすがに対応して下さるドクターの方、看護師の方々の
手慣れた動きに、感動と変わらぬ御配慮に深く感謝申し上げます。
 
国の対策も変化して行く様ですから、もうこんな事は終わりかもしれませんね?
 
振り返ればこのコロナによって、今までの生活パターンが大きく変化して来ました。
3年も続くと、もう元に戻る事のない事柄が常態化して行くのでしょう。
 
そして、パンデミックによって今まで見えなかった政治や世界の真の姿(闇の部分)が表に現れて来ています。
 
改めて突き付けられる、日本がアメリカ合衆国の属国で縛られている現実。
世界を操っている真の権力者が世界分断を望んでいる意図。
 
常に世界中で紛争を仕掛け、軍事産業で儲け、お金を操り日々の生活で精一杯の人々(弱者)を、虫けらの様に扱い続けて行く(デープステート)の巧みな情報戦略。
自由と平等と博愛を餌に!
やっとこの歳になって、世界の真の姿を捉える事が出来る様になってきました!まだまだですが。
私は思うのです。
例えそれを覆す事が出来なくとも真実は知るべきだと。
知らないよりは知っていた方が良いのだと。
 
答えは歴史の中にあります。しかしその歴史が歪曲されて教えられて来た?
「ロシアによるウクライナ侵攻」常にニュースの前触れにこう言う。
これ自体がおかしい。私達は知らず知らずのうちに洗脳され続けている。
その事に気づかせて下さった馬渕睦夫氏に、深く感謝申し上げます。
 
「和を持って尊しとなす」教わりました!これは日本の心なのですね。
そして、「貴方がよくて私が良くなければ何事も成り立たない」
これは我が母の教えです。

16年間の屋根直し

パートナーが亡くなって一年後、私はやっと母屋の屋根の吹き替えを依頼する事が出来ました。
 
赤い屋根のトタンは45年余りの歳月で劣化し、もう穴ふさぎで済まされる状態ではなくなっていました。足を踏み入れた場所がパキパキと音を立ててひび割れる様になっていたのです。
 
「今までこんなに広範囲に屋根直ししているの見たことないよ!ましてや女の人がだよ!」
屋根に上がり、あちこちの寸法測定しながら、依頼した業者さんは驚いていました!
そうでしょうとも、あちこち合わせると三畳程にはなる筈です。
 
修理の材料は、クッキーのブリキの箱、使わなくなった煙突、物置の隅で見つけた波鉄板の端くれ、叩いて伸ばし屋根のあちこちに差し込んでの作業でた。
金具を切るハサミを操るのは、年月と共にうまくなりましたね。
晩秋の屋根直しは、寒さと屋根から滑り落ちないか?の苦役でした。
お金がないと言う事はこれが現実なのです。
でもこうすると生きれます!
 
思えば雨漏りが始まったのは、平成15年の春頃だった様な気がします。
当初は、玄関横の離れに続く廊下でした。
 
天井の中心辺りからポタリポタリとでしたが、やがて大雨の時はバケツを置いて凌がなければならなくなってきました。
その周りも水浸しです!
 
するとです!今でもパートナーの行動には頭を傾げます!
私は雨漏りを直すには屋根でしょう!と、当たり前に思うのですが、パートナーは違っていました。
なんと!(廊下の壁にペンキを塗った!)のです!
涼しげな顔で。
 
エー!エエッ!
これが雨漏り対策なの?!
 
私は内心の驚きを隠して黙って見守っていました!
20歳の年齢差は、夫に強く意見する、そんな雰囲気ではありませんし、これから
この人はどんな行動をするのか?興味があったのだと思います。
その頃は、屋根修理など頼める余裕はまったくありませんでしたが
「いよいよ、食べれなくなったらここを売れば良いからね」
日頃から言っていたパートナーです。
 
田舎町の事、早々アルバイト先も見つかりませんが、夫は身体の弱い私が働くのは猛反対する人でした。
しかしながら、元々経済観念のない人のやることです。
?、?、?。
 
そんな日々の暮らしの中で、山野草をメインに生活をしていましたが、ヘビースモーカーが祟ったのか、極貧生活が祟ったのか、胃潰瘍になってパートナーは入院を余儀なくされました。
 
「大丈夫か?」
入院中、パートナーは山奥に一人取り残された私を案じて電話をかけ気づかってくれました。
手紙もほぼ毎日の様に届きました。
これは係累もなくこの地でひっそりと暮らしていた私への配慮です。孤立しない様にという事なのです。
経済観念のない人でしたが、パートナーが最も大切にしていたもの、それは(心)なのです!
心はお金では買えませんから!
 
その間にも雨が降るといつもの場所がひどい雨漏りです。
バケツが2個とタライを置いて、ダンダン酷くなって来たのが分かりました。
 
私は屋根の修理をする決心をしました。
5,6歳の頃、親戚の伯父さんが屋根屋さんで実家の屋根をトタン屋根に吹き替えていたのを見たり、父が建てた物置小屋の屋根を一斗缶を切り刻んで上手に屋根を吹いていたのを思い出してやる事にしたのです。
 
パートナーは、私の父の様に日常生活に密着した行動は出来なかった(いや分からなかった)だけで、何でもやって見たかったのでしょう。
様々な道具を持っていましたので、こうなるとおおいに役立ちました。
 
ブリキを切るハサミを操るのは容易ではありませんでしたが、こんな時は父の姿が後押ししてくれました。
錆びたトタンの中に差し込んで数か所、波鉄板を抑える釘を見つけて止めました。
これで良し!
翌日早速報告しました。
「なにー!、屋根、直したって!何の為に屋根屋さんがいると思ってるんだ!素人が出来ないから屋根屋さんが居るんだろ!?そんな所を触ったらとんでもないことになるんだぞ!」
病人のパートナーはとカンカンです!
 
この思いがけない展開。
お金がないから他に方法がありますか?と言いたい所でしたが、夫は入院中です。
言わせておきましたよ。
 
退院後、帰宅したパートナーは私を伴い玄関前に立ちました。
そして屋根をしげしげと見回し、大きく肩で息を吸い込んで言ったのです!
 
「凄いねーM子!屋根直しも出来るんだったら、もうこっちのもんだね!」
目を輝かせ笑みがこぼれていました。
このコメントに啞然!
もう私の頭はクラっとして、白い煙で覆われたみたいでした!
 
楽しませてくれますね。
笑いは出ませんでしたが何処かおかしい!
 
パートナーは翌年も胃潰瘍で入院。
その後、身体が弱いなんて言ってはいられません。
私は様々な薬を片手に、送迎をパートナーに託し働き始めました。
 
振り返れば16年間の屋根直しでしたが、ピカピカになったトタン屋根をパートナーに見せて上げたかったです。
 

無知なる善

学びの場を持つ事が無かったけれど、様々な事を教えて下さったのは亡きパートナー(慶応義塾大学医学部出)です。

 
何時も私に言っていました。
「M子は可哀想だね。親父の子供だったらどんな事でもやらせてもらえたのに!」
これが口癖でした。
きっと好奇心旺盛な私を見てそう思ったのでしょう。

以前親戚の家から帰宅した時の事です。
当時中学生だった甥の純粋な物のとらえ方を見て余りにも称賛するので、私の口から思わず飛び出した言葉です。
「それは、無知なる善でしょ!」
すると、パートナーはカッと目を開き声を大きくして
「誰が言った⁉」
と、問いただしてきました。恐らくパートナーの知識を持っても聞いた事がなかった答えだったのでしょうね。
「だから今、私が言ったでしょ!」
「君は凄い事言うね!」
「だから、お人好しの姉に育てられた子よ。世間を知ってこれからどんな大人になるか?でしょ。
 あのままの良さを大人になっても持ち続けていられるか?
 そこが問題ですよ。多分あまり変わらないとは思いますけど」
 
パートナーはその言葉に耳を傾け私をジッと見つめ、
「うーん」と唸っていました。
「出来る事なら汚いものは見ない方が良い!」
これが日々私に言っていたパートナーの自論でした。
 
私はあの頃もこの世の真の姿を追い求めていました。
今も変わっていませんが。
人間の不可解さを常に感じているからの答えでした。
お人好しの両親に育てられたのですから、兄弟姉妹も似たようなものです。
しかし、世界、世間の成り立ちの深層を知っていたならどうなのだろう?
無知なる善の向こうに垣間見える人間とは?
難しい問題です。
自分自身を紐解いても分からない事ばかりなのですから。
 
最後に残るのは個々の人間性になるのでしょうか?
 

一昨日まで暖かかったのですが、昨日からまた寒くなるとの予報を聞きながら外に目を向けるとチラチラ雪が降っていました。
でも、滅多に大雪にはなりません。
道南のこの地は、道内の中で積雪の最も少ない場所なのではないでしょうか?
 
私が嫁いで50年になりますが、屋根の雪は一度も下した事はありません。
後志管内で生まれ育った私にとって驚きでした!
 
後志の冬は雪との格闘の日々ですもの。
屋根の雪下ろしをしなければ家が潰れてしまいます!
リンゴの木もぶどうの木も裂けたり折れたりします。
 
私は小学5,6年の頃から牡丹雪がとどめなく降って来る空を見上げると、自分自身が何者かによって地面にねじ込められて行く様な、何とも言えない気持ちに襲われたものです。
憂鬱になって、生きているのが嫌になるのです。
故に、私は雪が嫌いです。
 
こんな話をしましたら
「私も娘も同じ!秋になって木の葉が落ちるのを見るとそんな気持ちになります!」
と、言われる方に会いました。
 
それぞれの感性の問題なのでしょうね。
だから私は一人になっても、身内の住む後志に戻らずこの地に留まっているのです。
気候変動の中ですが、冬でも晴れの日が多いここが好きです。
一年を通して見る感想は、(太陽が明るい!)です!
それだけで気分が良いです。元気になれます。
 
ですが生きるには人間の息吹がいかに必要かも感じています。
 
大変です!一晩で雪が15センチは積もったみたいです。
でも、今までの経験から、根雪になって春まで積もり続ける事はありません
晴れの日が多いので4,5日で解けてしまいます。
サアー頑張って広い長い道を除雪しましょう!
いよいよ手に負えない時には、ご近所さんがトラクターで手伝って下さいます。
だからまだここで生きれるのですね。
ご近所さん!毎年の様に気に掛けて下さってどうもありがとうございます。
深く深く感謝申し上げます。
<(_ _)><(_ _)>

恥じてはいません

建物も築50年ともなりますと痛みが凄いです。

我が家の敷地に入りますと左手に大きなⅮ型倉庫がありますが、赤茶けて30年程前に屋根の一部が突風にえぐられ破損し、二箇所のシャッターもサビ付いています。
その近くの厩舎も朽ちかけ、母屋は何とか住み続けられるように少しづつ手を入れていますので、まあまあでしょう。
私はそれらの中に、朽ちていく美を感じています。
大地の中に埋没して行く。
全てのものには始まりと終わりがあるのですから。
 
こんな家ですから、
「壁の修理しませんか?」と時々業者さんがやってきます。
「直したいのは山々ですが、貧乏なので出来ません」と、私。
「子供さん、お金を出してくれませんか?」
「子供はいません。頼んだ所でお金が払えなければ皆さんに御迷惑を掛けてしまいますからね。ですから頼めません」
「すいません。奥さんにそんな事まで言わせて!」
「大丈夫ですよ。私は少しも恥ずかしいとは思っていません。
 私は一生懸命生きて来ました。その結果こうなっただけですから。
 それに何時まで生きれるか分かりませんしね」
「いえいえ、まだまだお元気ですよ!」
そんなリップサービスをされ、業者さんは戻っていかれました。
 
私は日々正直でありたい!
精一杯で生きて行きたい!
そう思っていますので答えは真っすぐです。
今の私にとって一番楽な生き方なのです。
 
「これからは自分の持っている力を全部使って生きて行きなさい!
亡きパートナーの言い残した言葉です。
 
近頃思うのです。
私の持っている力とは、今の現状を飾らずに素直にさらけ出す事なのではないか?と。
これは目に見えないものを形にする大仕事ですよ。
 

カラス

もう四十年は住み着いていると言って良い程、毎日のように二羽のカラスが姿を見せます。

勝手口付近で何か食べ物はないか?と催促している様です。
たいがいは黙って向かい側の物置小屋の軒先に止まって、頭を傾げ私の行動を観察しています。
が、余程お腹が空いている時は飛び降り、50センチ程側まで近づき、せわしなく歩き回ります。
ここにいるぞ!
私を見上げる眼差しはまさにそうアピールしています。

パートナーの存命の折には、もっぱら外猫の餌をくすめては腹を満たしていたのですが、猫はアライグマが出現する様になってから徐々に姿を消し、今では訳ありの猫もいましたが一匹もいなくなってしまいました。
 
故に私を待ち伏せ、直談判と言う所でしょう。
確かにこの長い年月です。
同じカラスのはずがありませんよね。
でも見分けがつきませんので、私にとってはいつものカラスが二羽なのです。
カラスに餌なんて!と、どなたかに𠮟られそうですが、私が上げてるのは飢えずに生きれる程度です。
 
必ず上げている訳ではありませんが、雨やみぞれでびしょ濡れの時は可哀そうすぎますので、パンや残り物を上げています。
 
「生きているから大変よね」そう声を掛けながら。
そう言えば今来ているカラスは急いで餌をあさって飛び去りますが、過去には芸達者なカラスが居ました!
「何時もただ貰いばかりせず、たまには芸の一つも見せてごらん!
そう声掛けしていたのが伝わったのでしょうか?
 
物置小屋の軒先に止まり、両羽を広げると
「アー!アー!」
と鳴きながら羽を小刻みに震わせ、身体を左右に傾げるのです。
何か食べ物を貰えるまで幾度も続けていました。
まるで踊っているみたいでしたよ!
そんな芸をしたのが二年程続いていましたが、その後はパタリと見た事はありません。
と言う事は何時も同じく見えているカラスですが、個体が入れ替わったと言う事ですよね。
 
私は好奇心旺盛ですが、カラスの見分けだけは駄目な様です。
 

まどちゃんの介護の始まり

昨年の12月4日、猫の福ちゃんが亡くなりました。
その半月程前からまどか(まどちゃん)18歳の下痢が始まっていました。

 
まどちゃんは、おもに左側の乳房に5センチばかりのしこりがあり、同じく左の後ろ足の膝あたりにもしこりがあります。
もう3、4年ほど前からあったのですがダンダン大きくなって来ていました。
私が嫁いでからの猫との関わりは80匹ぐらいになりますが、やはり今のまどちゃんと同じように乳癌を患い亡くなった猫がいました。
皆15歳過ぎていました。
 
その子達は、おっぱいのしこり部分からのうが出る様になって三ヶ月から六ヶ月程で亡くなりました。
お腹を包むようにパットをあて一日に何度も取り替えての介護でしたが、やはり耐えがたいほどの強烈な悪臭がしていましたね。
この臭いは、癌特有の様に思われます。
 
まどちゃんは今までの猫とは違い下痢便ですから、オムツをするといっても嫌がって、させるようなタイプではありません。
故に家の中が便で汚れますが仕方がありませんね。
それでも朝晩チュールにビオフェルミンをかけて上げると嫌がらず食べ、普通に歩き回っています。
この他の薬をまともに飲むようなら、もう少し何とか手の打ちようもあるのですが、凄まじい野生動物に変身しますのでここまでです。
 
汚れ物の洗濯は大変ですが、見守って行くより仕方がありません。
悪臭も仕方がありません。
 
只、あまり苦しまずに最後の日まで過ごしてほしいと願うばかりです。
まどちゃん、今まで私の側にいてくれてどうもありがとう。

2度目の冬

虚弱体質の私が、風邪薬も飲まず冬を過ごせる様になって2度目の冬を迎えました。

コロナを機に、アレルギーの薬を飲む様になってから良くなったのです。
過去何十年もの間、10月から年明けの4月頃までは風邪ばかりひいていた。
そんな体調の悪さの中で働き続けるのは大変でした!
雇われているのですから、体調を整え働いている時間は元気で過ごす。
「仕事に出ている間は舞台に立っているのと同じ!」
そう肝に銘じてやってきました。
人知れず帰宅後は倒れる様に休息を取った日々。
 
亡きパートナーによく褒められたものです。
「M子は、身体は弱いが気だけはしっかりしている!」
「その体調で、機嫌よくしているのは見上げたものだ!」と。
 
これも又母の教えです。
「苦しみ悲しみは自分持ち、人に振ってはダメだよ」
 
この体調の悪い中では、家の整理整頓は二の次でした。
生きるだけで精一杯なのですから。
それ故に全てが乱雑になってしまったのです。
 
今やっと体調が良くなったとはいえ、今度は肉体の老化、若い時の様に身体が動きません。
その上極端な寒がり。これは変わりません
それでも以前から見るとずっとましです。
後は自分自身との戦いです。やるかやらないかは自分が決める事なのです。
生きるとは、こんな日々の繰り返しですね。